津田沼教会 牧師のメッセージ
「主イエスに選ばれて」(ヨハネ15:1〜17)
ヨハネ15:1-17、2009・11・01、全聖徒主日(典礼色―白―聖餐式あり)
エゼキエル書37:1-14、ローマの信徒への手紙6:1-11

ヨハネによる福音書15:1〜17
 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものは何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。
 これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」



説教「主イエスに選ばれて」(ヨハネ15:1〜17)

本日、私たちは全聖徒主日の礼拝に集められています。そして、与えられている本日の福音は、ヨハネ福音書15章1節から17節であります。この部分は、本年既に復活後の主日においても読まれた個所であります。再び、ここで、この記事が選ばれている意味は何なのか、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。
 ところで、まず、全聖徒とは、だれを意味しているのでありましょうか。それは、聖者とか、ましてや聖人君子というような、この世から称賛され、尊敬されている一部の例外的存在の人々を指しているのではありません。それは、あるがままの、欠点や弱さをも担っている多くの人々、私たちを指しています。
 本日の祈りにありますように、「主キリストのからだ、唯一の聖なる教会に、(信仰によって)結び合わされ」て信じる者とされたすべての人々を指すのであります。
 津田沼教会では、洗礼を受けて、そのような者とされた、信仰の先輩の兄弟姉妹方と共に、生前、残念ながら、洗礼を受けて主イエスこそ救い主と信仰告白をするまでには至らなかったご両親や伴侶のような方々をも共どもに思い起こし、きっと天国から励ましのメッセージを送っておられる親しい方々をも思い起こす時としても、これまでは毎年一度の召天者記念礼拝を守っているのであります。
 さて、本日の福音、ヨハネ福音書15章1節から17節は、大きく二つに、すなわち、15章1節から8節までと、15章9節から17節までとに分けて考えることができましょう。
前段で主は、私は、まことのぶどうの木、父は農夫であると言われるのであります。ぶどうの木は、み民イスラエルを象徴するものとして、旧約聖書では考えられてきました。しかし、彼らは、しばしば良くないぶどうの木となってしまい、神から離れて生活していったのであります。
それに対して、主は、私こそは、新しい神の民をもたらす真実のぶどうの木であり、父は、実をもたらさない枝は取り除き、実をもたらす枝はもっとそうなるように、手入れをなさる園丁であると言われるのであります。私たちは、主イエスにとどまるならば、良い実をもたらし、主の内にとどまらなければ、自分からは何もできない弱い存在であります。主を離れては、何もできない枝であり、良い実をもたらさないならば、私たちは投げ捨てられ、枯れ果て、燃やされてしまう無用の長物となってしまうのであります。
 そして、主は、私にあなた方がとどまっているならば、そして、わたしの言葉にとどまっているのなら、何でも私の父に願いなさい。そうすれば、それはあなた方に成るであろうと言われます。そして、私たちが豊かに実をもたらすならば、それによって、私の父は栄光を受ける、人々から尊ばれることになろうと、約束されているのであります。
 次に、後半では、だれであれ、その友のために、命を差し出す、直訳すると「命を前に置く」それ以上に大きな愛をだれも持っていないと言われます。主イエスは、私たちを友と呼ばれます。これは、愛する者たちという意味であります。
 なぜならば、しもべは、その主人が何を望んでいるか知らないが、私は、あなた方に父から受けたことをすべて知らせたからであると言うのです。
 そして、主は、言われます。あなた方が私を選んだのではない、かえって、私があなた方を選んだのであると。私たちは、自分の決心で洗礼を受けたと思っている人もおられるでしょう。しかし、私たちの決断よりも前に、主が、私たちを選んでくださっていたのであります。悲しいこととか何かがきっかけとなって、洗礼に至ったと思いがちですが、先に主が、12使徒たちと同じように一方的に、主導権をもって計らっていてくださったのであります。
それは、すべての信者となった人に、共通して言えることなのであります。そして、洗礼がまだの方も、今も主は選ぼうとされているのであります。
 そして主は、私が、あなた方を任命したと言われます。これもあなた方を「置いた」という意味の言葉であります。それは、あなた方がこの世界へと出て行って、豊かに実をもたらすためであり、その実がずっと残るためであると言われ、あなた方が、私の名において祈り、望むものは、何であれ、父が与えるであろうと約束されるのであります。そして、最後にこれらのことを私はあなた方に命ずる、すなわち、あなた方は、互いに愛し合いなさいと言われるのであります。
 私たちは、弱さをになった、そしてまた、罪にまみれた存在であります。しかし、互いに愛し合うようにという唯一の主の命令を私たちは与えられています。私たちが、教会で愛し合い、赦し合うということが、世が私たちが、キリストの弟子であることを知るようになる唯一の道であると主は、地上での弟子たちとの別れに際して、弟子たちに託し、お命じになっているのであります。そしてそれが、私たちが出て行って、良い実を結ぶということであります。
 先に天へと召された人々に倣って、主から選ばれた恵みを思い起こしつつ、この危険と困難に満ちた地上での生涯を、私たちもみ言葉と共に歩んでまいりましょう。その時にこそ、私たちは、喜びで満ち溢れることでありましょう。祈ります。
  天の父なる神さま。
 本日は、先にあなたのもとに召された人々を偲んで、あなたのもとに集められています。どうか、私たちが、キリストにつながり、生涯の道程を歩んで行くことが出来ますように、憐れんで下さい。私たちが、み子によって選ばれ、弟子とされていることを忘れずに、信仰の道を雄々しく歩ませてください。先に召された人々と天国で再会できることを信じ、希望のうちに、津田沼教会を通しての信仰生活が全うされますように。
                    キリストによって祈ります。アーメン。

平和と信仰を伴う愛が、父である神と主イエス・キリストから、兄弟たちにあるように。




2009/11/01(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「宮清めと宗教改革」(ヨハネ2:13〜22)
ヨハネ2:13-22、2009・10・25、宗教改革主日(典礼色―赤―聖餐式あり)
列王記下22:8-20、ガラテヤの信徒への手紙5:1-6

ヨハネによる福音書2:13〜22
 ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。




説教「宮清めと宗教改革」(ヨハネ2:13〜22)
 
本日は宗教改革主日として、ヨハネ2:13-22が与えられています。いわゆる宮清めの記事であります。第一のしるしを、ガリラヤのカナにおける婚宴の席で、水をぶどう酒に変えるという喜びのしるしを主は行われ、栄光を現され、弟子たちは主イエスを信じたのであります。
それに続く本日の宮清めの記事は、ユダヤ人たちの敵意と憎しみを、主イエスに対して引き起こすものとなります。他の福音書と違って、ヨハネ福音書記者は、受難週の中での出来事としてではなく、その宣教の初めに、この出来事を記しています。それは、宮清めの出来事が、ヨハネ福音書記者にとって、より大きな比重を持っており、最初に記すことが、ふさわしかったからでありましょう。
「ユダヤ人たちの過越しの祭りが近づいた、そして、イエスはエルサレムへと上って行った」と本日の記事は始まっています。過越しの祭りが近づいたことが、ヨハネ福音書では3回出てきます。そこから、主イエスの宣教活動が、2年数か月か、あるいは3年に及んだことが明らかになるのであります。
続いて、主は、神殿の境内で、異邦人の庭と呼ばれる場所であったでしょうか、牛や羊や鳩を売っている者たちや、腰かけている両替人たちを見出されるのであります。そして、主は、ロープから鞭を作って、売っている人々や、牛や羊をそこから追い払い、両替人の小銭を撒き散らし、その机をひっくり返されるのであります。そして、言われます。「私の父の家をマーケットの家にあなたがたはしてはならない」と。
そのとき、弟子たちは、「あなたの家への熱意が、私を食い尽くすであろう」と詩編に書かれているのを思い出していたのであります。そして、ユダヤ人たちは、すなわち、神殿守衛長のような人々が、彼に対して、言っていたのであります。「あなたは、このことをするからには、どんなしるしを私たちに見せてくれるのか」と。
主は、「この神殿を壊してみよ。三日の内に、私はそれを起こすであろう」と答えられます。主は、御自分の体の神殿について語っておられたのであります。ユダヤ人たちは、「この神殿は、46年もかかって建てられたのに、あなたは三日でそれを起こすのか」と応じていました。
弟子たちは、後に、主イエスが復活した後、彼がそのことを語っていたのを思い出し、聖書と主イエスの言葉とを信じたというのであります。この聖書とは、「あなたの家への熱意が私を食い尽くすであろう」という言葉を指しているかもしれません。あるいは、全聖書、旧約聖書の全部を意味しているかもしれません。
さて、ヘロデ大王が紀元前20年ころに、修復しはじめた第2神殿は、紀元後63年のころに至ってようやく完成したのでありますが、紀元70年のローマ軍による破壊によって跡形もなく崩壊したのであります。
主イエスが、形骸化したユダヤ教の礼拝が、終り、霊とまこととによる主イエスの体を教会の体として礼拝するようになる時が来ることを、ヨハネ記者はその福音書の初めに、記すことで、主イエスの栄光をこの第2の重大な出来事において、まず指し示したのであります。
主イエスを信じる者たちには、いける水、命の水がわきあがり、霊とまこととをもって、主イエスこそまことの神殿であり、牛や羊の犠牲によって、ではなく、主イエスの十字架による死と三日後の復活によって、罪赦される時代が来ることを、主は宣教の初めに示されたのであります。本日は宗教改革主日であります。マルチン・ルターが1517年10月31日に、95カ条の提題をかかげ、信仰のみ、恵みのみ、聖書のみによる救いを説きはじめたことを、私たちは今日特に覚えているのであります。聖書を、主イエスの十字架の死と三日のうちの復活の光によって説き明かしすることを改めて覚えたいものであります。
祈りましょう。
天の父なる神さま。
私たちは、罪を繰り返す弱い信仰者でありますが、常に、聖書のみ言葉に立ち帰って、大胆に悔い改める義人にして、同時に罪人であることを承知しています。どうか、一致して、愛の内に、私たちの群れ、津田沼教会の群れを養って下さい。そして、キリスト者が一致して、御子による救いを宣べ伝える証し人となるように、み言葉にっよって励まして下さい。本日はこの後、一人の姉妹の転入式がありますが、私たちの群れの良き証人とならしめて下さい。また、近づきましたバザーをもそのような機会として生かしていくことができますように。キリストによって祈ります。

2009/10/25(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「今、この世でも百倍の報いを」(マルコ10:17〜31)
マルコ10:17-31、2009・10・18、聖霊降臨後第20主日(典礼色―緑―)
アモス書5:6-15、ヘブライ人への手紙3:1-6

マルコによる福音書10:17〜31
 イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。イエスは彼を、見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。
 イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした。イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」



説教「今この世でも百倍の報いを」(マルコ10:17〜31)

私たちは、このところ、第2回の主のなさった受難予告のあと、エルサレムに向かう主と弟子たちの旅の途中での出来事と、主のお言葉を、マルコの記事を続けて聞いています。 
そして本日は、マルコの記事は、10:17-31であります。エルサレムを目指しながら、主が再び旅立とうとしておられる時に、一人の者が、駆けつけて来て、ひれ伏し、質問するのです。
「善い先生、永遠の命を所有するために、私は、何をすればいいのでしょうか」と。主はお答えになります。「なぜ、私を善い者と言うのか、神おひとりのほかには、善い者はだれもいない」と。主は、罪のない唯一の人でありましたが、ここでは、ご自身を謙遜に考えられて、父なる神だけを善いお方だと言われるのであります。決して罪を犯されなかった唯一の人でありましたが、私を善い者と呼ぶなと諭されるのであります。罪は犯されなかったが、私たちと同じ人間となってお出でになって下さった方なのであります。
そして、お答えになられます。「あなたは、その教え、永遠の命、神の国、神の支配にいたる道を、既に知っている。すなわち、それは、モーセの十戒の第2の板に書かれてある掟である。殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪うな、すなわち、自分の預かっているものをむさぼるな、父母を敬えという戒めである」と答えられたのであります。
私たちは、自分の努力や成功や功績、何か特別の行いによって救われようとしがちであります。それに対して、ルターは、良き行いとは、十戒ですべて尽くされていると言うのであります。すると、その一人の者は、「私は、幼い時から、それらをちゃんと守ってきました」と答えます。主は、その者を見つめて、愛され、慈しまれました。そして、答えて言われるのであります。
「あなたに欠けていることが一つある。あなたの持っている多くの財産をみな売り払って、貧しい人に与え、それから、戻って来て私に従いなさい」と。その人は、暗い表情になって、悲しみながら、立ち去ったというのであります。
この「一人」の者とは、決して例外的なこの大金持ちを指しているのではなく、私たちすべての者を意味しています。その人にとっては確かに、多くの財産が、主イエスのもとに来れない原因・束縛でありました。それでは、私たちにとって、それは何でありましょうか。それは、さまざまで、ある人にとっては、地位や名誉であったり、また別の人にとっては、欲望をむさぼることであったりするでしょう。
今日の主日の祈りにありますように、この世界は、危険と誘惑に満ちています。私たちはその中で、クリスチャンとして勇敢に挑戦しなければならないのであります。主は、「子たちよ、神の国にはいることは何と困難であることか」と言われます。弟子たちがそれではだれが救われるでしょうと驚いていると、さらに言われます。「金持ちが、神の国にはいるよりは、らくだが針の目をくぐる方が容易い。」ペトロが答えます。主よ、私たちはすべてを捨てて、あなたに従いましたと。主は言われます。「私はよくあなた方に言っておくが、だれであれ、私のために、また、福音、主がもたらされる良き知らせのために、自分の畑や父母や、兄弟姉妹たちや家を捨てた者は、今、この世でも、畑どもや、母、兄弟姉妹たちや家どもを百倍も受けない者は一人もないであろう」と。「そして、来たるべき世においては、永遠の命を受けるであろう」と。そして、最後に「多くの先の者たちが後の者たちとなり、後の者たちが先の者たちとなるであろう」と言われるのであります。
私たちは、自分の力や行いや人間的偉大さで神の支配に与るのではなく、神の一方的な自己投与、恵み、神の贈り物によって、永遠の命に与り、来たるべき世界では、先の者が後になり、後の者が先になるという逆転が起こるのであります。私たちは、この世界においては、多くの迫害、苦しみ、苦難にも直面しますが、自分が放棄したものの百倍のそれらを、神の慈悲と憐れみによって受けると主は約束なさっておられるのであります。
今日の日本においても伝道は非常に困難でありますが、本日の主の言葉に信頼して、希望を失うことなく、永遠の命を所有するために、障害となる金銭欲や人間的絆、事業や努力に信頼するのではなく、神の恵みに、神からの贈り物に身をまかせて歩んでまいりましょう。祈ります。
天の父なる神さま。あなたは、み子を通して永遠の命を、また、今この世でも、捨てたものの百倍を受けると約束なさいました。私たちは、なかなかあなたを信頼しえず、倒れたり、傷ついたりしますが、どうか、そのような時にこそ謙虚に、あなたに叫び求める者とならせてください。キリストによって祈ります。アーメン。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。
2009/10/18(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「神による男女の創造と子供の祝福」(マルコ10:1〜16)
マルコ10:1-16、2009・10・11、聖霊降臨後第19主日(典礼色―緑―)
創世記2:18-24、ヘブライ人への手紙2:5-9

マルコによる福音書10:1〜16
 イエスはそこを立ち去って、ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれた。群衆がまた集まって来たので、イエスは再びいつものように教えておられた。ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」

 イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。



説教「神による男女の創造と子供の祝福」(マルコ10:1〜16)
 
このところ、私たちは、エルサレムに向かう途上での主イエスのお言葉や、出来事をマルコ福音書に沿って読み続けています。本日の記事は、「そこから出て、ユダヤの地方へと、ヨルダン川の向こうへ」と進んでいる主イエスの一行の旅路での出来事が記されています。 
マルコ10:1-12と10:13-16の二つの出来事が本日の福音であります。離縁、離婚の問題と、子供を主が祝福された記事からなっています。結婚と子供についての記事であり、家庭の問題がまとめられていると見ることもできます。主がエルサレムに向けての旅の途上にあるとき、人々が集まって来たので、主はいつものように、教えておられたのであります。主イエスの人々をひきつける魅力が示され、人々に教えるマルコの主イエス像が描かれています。
ユダヤの地方とヨルダン川の向こう側の地へと行かれたとありますが、旅行の順序としては逆になっています。マルコは地理に正確であることには無頓着で、主の教えの魅力に焦点を置いています。
するとそこに、ファリサイ派が、主を試そうとして、やって来て質問するのです。「離婚することは、許されているでしょうか、どうでしょうか」と。主は、即答はなさらず、モーセは何と書いているのか、命じているのかと彼らの聖書の読み方を問い返されます。すると、彼らは、モーセは離縁状を書いて女を行かせ・去らせることを認めましたと答えます。主は、それに対して、モーセはあなた方のかたくなな心に向かって、離縁状を書いて妻を離婚することを認めたにすぎないのだ。
創造の初めから、神は人を男と女にお造りになった。従って、人は父母を後に残して、男は女に固着するのである。もはや、夫婦は一体であって一つの肉である。従って、神が合わせたもの、これは、一つのくびきを負わせたという意味ですが、それを人が軽々しく離してはならないと創世記を引用してお語りになりました。
原則的には、離婚を禁じたのであります。現代の複雑な状況の中では、離婚も許されるとも考えられますが、神にかたどられて造られた男女の人間は、本来一夫一婦であることを主は創世記の記事から求められるのであります。前半の後段では、家に入って弟子たちが主にそのことについて質問したのに、答えて教えられます。妻を行かせて、他の女と再婚する者は、妻に対して姦淫の罪を犯すのであり、また、妻が離婚して他の男と再婚するのは、姦淫の罪を犯すことになるというのであります。離婚は認められようが、再婚は原則として禁じられていると主は弟子たちに教えられるのであります。現代では再婚も場合によっては認められるように考えられます。しかし主は原則としては、神の創造による男女が一つとされた結婚の神聖さを見失ってはならないと言われるのであります。一方がなくなった場合の再婚については主は認められているようでありますが、1対1ということが原則であり、夫婦はひとつのくびきにつながれているとお考えになられていたのであります。
さて、後半の1013-16は、子供の祝福についてであります。子供は、悪や罪から潔白であるというわけでは必ずしもありません。しかし、子供、特に12歳くらいまでの子供が考えられていますが、主の祝福の力に与りたい人々が、子供を連れて来て触ってほしいと思ったのであります。
しかしそれを見て、弟子たちは叱り、妨げようとする。ところが主はそれを、珍しく憤られ、私のところに来るのを妨げてはならないと言われ、神の国はこのような者たちのものであるといわれ、子供たちを抱き上げて両手を頭にのせ、祝福なさるのであります。子供は、親や大人に、また、神に全信頼を寄せています。彼らは、お金を持たなくても、平気であり、また、謙虚なもの、自分が小さい無力な者であることを知っています。
主は、私たちキリストの弟子たちが、地位争いをやめて、互いに仕え合うものになることが、神の国にはいるためには無くてはならないことだと示されるのであります。私たちも、そのような神の前に低く小さい者であり、幼子のように、主イエスと父なる神に全信頼を寄せて歩んでいきたいものであります。アーメン。

平和と信仰を伴う愛が父である神と主イエス・キリストから、兄弟たちにあるように。

2009/10/11(日) 10:30:01| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)
「キリストの弟子として」(マルコ9:38〜50)
マルコ9:38-50、2009・10・04、聖霊降臨後第18主日(典礼色―緑―)
民数記11:24-30、ヤコブの手紙4:13-5:8

マルコによる福音書9:38〜50
 ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」

 「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。人は皆、火で塩味を付けられる。塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身のうちに塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」

説教「キリストの弟子として」(マルコ9:38〜50)

本日の福音は、マルコ9:38−50であります。先週の続きとして、誰が、弟子たちのうちで一番偉いのかというテーマのエピソードの後に、本日の個所が与えられています。まず、ヨハネが主のもとに、急に登場し、戻って来て言うのであります。先生、あなたの名の上に、悪霊どもを追い出している者を見ましたが、私たちに従おうとしていなかったので、私たちは、彼を妨げようとしましたと。すると、主は、答えられるのであります。あなた方は、彼を妨げてはならない。なぜならば、だれも、私の名の上に、力ある業を行い、そのすぐ後に、私を悪く言うような者はいないからであると。そして、私たちに反対しない者は、私たちのための者である、と答えられたというのであります。
これは、マルコの時代の教会における状況を反映して、記された記事であるのかもしれません。後から来る者たちや、後から教会に来て信者たちを揺れ動かすようなる者にも、教会は寛大に迎え入れる用意がなければならないことを、その時代の教会の人たちが、さまざまな体験を通して思い知らされ、異邦人を称賛し、よいサマリア人のたとえを語られた主イエスの寛大さから、導き出した伝承か何かであったのでしょう。
さて、今、私たちの教会では、11月3日のバザーに向けて準備に入っています、チラシを見て、教会に電話をかけ、寄贈品を持って来てくださった方が、既に30人近くいます。彼らの中から、教会に関心を持ち、やがていつの日か信仰へと導かれる方がおられるかもしれません。私たちは、主が不思議な悪霊払いにも寛大であったことを常に思い起こしたいものであります。
マルコ9:41から、残りの9:50節までを、弟子たちへ主が残した賢明なお言葉としてまとめて考えることができるでありましょう。
まず、9:41では、最初のエピソードに続けて、主は、なぜならば、あなたがたがキリストの者であるという名において、あなた方に、コップに一杯の水でも飲ませてくれる者は、まことに、あなた方に語っておくが、彼のその報いを失うことは決してないと言われています。私たちに、キリスト者だとういうので、水一杯でもくれる人に対しても、神である主イエスご自身、満足であられたし、私たちも同じように、キリストを宣べ伝えるときに、相手が一寸の好意でも示してくれたならば、それで満足としなければならないのであります。
次に、主は、言われます。私へと信じているこれらの小さい者の一人を、私への信仰から離れさせる罪に陥れる者がいるならば、そんなことになるよりもはるかに彼は、その喉にろばによって引き回される大きな石臼を引っかけられて、海、ガリラヤ湖に投げ込まれるのが、良いとまで言われるのであります。
私へと信じている小さな者たちとは、謙虚な低い信者のことであります。先週の終りの記事9:37では、私の名の上に、このような者の一人を受け入れる者は、私を遣わした方を受け入れるのであると言われて、そこでは、子供を指したのでありますが、ここでは、信仰の弱い者や取るに足りない低い立場の信者を指しています。私たちは、そのような兄弟姉妹を決して躓かせないように、主によって警告されているのであります。
さて、今度は、今主の言葉を聞かされている私たち、キリストに従う弟子自身に対して、主は言われるのであります。あなたの片方の手があなたを不信仰という罪に陥らせるならば、それを切って捨ててしまいなさい。あなたは、体が不自由になっても、命に入るほうが、燃え尽きない火のゲーナへと投げ込まれるよりも、あなたにとってはそのほうがよい。また、あなたの片方の足が、あなたを不信仰の罪へと陥れるならば、それを切って捨てなさい。体が不自由になってでも、命に入る方が、ゲーナへと、あのゲン・ヒンノムのごみ焼き場、終りの日に、呪われた者たちを待ち受けている場所へと投げ込まれるよりもよい。また、あなたの片方の目があなたに罪を犯させるよりは、もう一方の目になってでも、あなたにとって神の国に入るほうがよい。すなわち、あなたは、魂において滅びるよりは、命、神の支配、神の主権の領域に入る方が、地上のはかない、束の間の喜びに甘んじるよりも、幸せであると主は警告なさっておられるのであります。
そして、9:49−50が与えられているのであります。すなわち、なぜならば、すべての人は火で塩味がつけられるであろうからである、と続くのであります。この火は、この福音書を読んでいた当時のローマの教会の人々にとっては、殉教や迫害、患難を思い起こさせたでありましょう。現代の私たちにとっては、試練や忍耐、粘り強さの必要を意味するでありましょう。そして、続きます。塩は良いものだ。しかし、塩が塩気を失ったら、何によって、あなた方はそれに塩味をつけるだろうかというのであります。塩が塩気を失うということは、死海の岩塩などを考えているのでありましょうか。そのような場合には他のものと混ざって使えなくなることがあるそうであります。
そして主は、最後にこう言われるのであります。あなた方自身において塩を持ちなさい。そして、互いにあなた方は平和を保ちなさいと。
私たち自身において塩気を持つとは、健全な常識やキリスト者としての忍耐や根気を持つことや周りの人々への慈悲の心を持つことでもあるとも言えましょう。キリストに従って自己犠牲の生活をし、一時的なこの世の生活に甘んじるのではない、滅びず、朽ちることのないまことの真珠を求めていく生き方であります。そしてそこから、互いに和らぐことが生まれ、だれが、自分たちのうちで一番偉いかといった議論に生きていくのではなく、そこから初めて、互いの奉仕への生活、霊的に平安な暮らしが保証されると主イエスは、今も語っておられます。祈りましょう。
天の父なる神さま。  
私たちは弱く、困難にあって、容易に倒れ伏す存在であります。けれどもあなたは、この日もみ言葉を通して、堅固な信仰に生きる道を示して下さいました。どうか、私たちが、小さい者ですが、絶えずみ言葉に頼って、これからも滅びることのない命を歩むことが出来ますように憐れみ、導いてください。キリストによって、アーメン。

望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを望みにあふれさせてくださるように。

2009/10/04(日) 10:30:00| 未分類| トラックバック(-) コメント(-)